打ち止め?
謝罪する意味・・・
「サッカー観戦ブログ -スタジアムに行こう!」のkickoff氏が、一昨日の記事で興味深い問いかけをしていた。 その趣旨は次のようなもの。
- 行進や示威行為に参加していない東京サポーターが、「何故」また「誰に対して」謝罪するのか。 これらの点に無自覚なまま行う謝罪など無意味ではないのか。
的を射た指摘だと思う。 闇雲に謝罪しただけでは、誰の耳にも届かないし、何にも繋がらない。 そう言われてみて、自分の記事を読み返し、謝罪した理由と意味について、書いたときの気持ちを思い返してみた。 その点を氏のサイトにコメント(fct-fan)した。 要約すると次のとおり。
- 同じチームの仲間(12番目の選手)として謝罪しうる立場にあると思ったので謝罪した。
- 謝罪することによって、事件が自分の中で風化するのを防ぐ効果があると思う。
漫然と謝った訳ではない。 が、それ程立派な理由・意味があった訳でもない。
思い返す中で、安易に謝罪することの危険性にも気づかされた。 謝罪するだけで満足し、その後の反省や対策をおざなりにしてしまう危険性。 謝罪した自分を美化し、しない人間に対して醜い優越感を抱く恐れ、等など。 謝罪が重要なのではなく、その後どうするのか。 当たり前のようで忘れがちなこと。 気づかせてくれた機会を与えてくれたkickoff氏に感謝したい。
行進企画者の結果責任
少し前に行進企画者のブログが更新された。 要は、
- 事件は後から知った
- 行進の目的は示威・挑発ではなく、楽しく盛り上げること
ということ。 行進と事件を現場で見ていない自分としては、この説明を信じる。
ただ、これだけは言いたい。 そのつもりが無かったとしても、行進が引き金となって事件が起きた以上、結果責任を感じて欲しいということ。
あるヴェルディ・サポーターのブログには示威行為の様子を捉えた写真が載せられている。 後述する理由により、あえてリンクは貼らないし、詳しく描写することも控えるが、映し出された光景は「楽しい」行進からはかけ離れたものだった。 たとえ意図していなかったにせよ、行進が暴発の呼び水になったのなら、少なくとも謝罪やお見舞いの一言を発して欲しい。
「後述する理由」とは↓
彼らに対する面白半分の誹謗・中傷、罵倒。 もし、このままエスカレートしたら、現実に何も問題が起きないと断言できるか。 個人叩きが制御不能になりかねない状態を見過ごしたとすれば、あの行進と同じじゃないか。 どうしてあの行進のことを批判できるだろうか。 ネットの匿名性や増殖性を考えると、センセーショナリズムを追いかけることにはもっと慎重になった方がいいかもしれない。
もちろん、被害者が主張するのは正当な権利だし、被害者以外でも彼らに対する疑問を表明するのは結構だと思う。 けど、人民裁判のようになるのは本意ではない。
そう、打ち止め。 静かに見守っていきたい。 けど、目は光らせておくし、何かあれば忌憚の無い意見を表明させていただく。
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コメント
「自己責任」で行動した人は最後までその責任を全うするもの。管理責任のない人間に謝罪を求めてどうしようというのか、疑問です。簡単に謝罪する行為は、いざ本当に誤らなければならないときに、その効果を薄っぺらなものにします。部下の失態や自分の子供の粗相、あるいは自分自身のミスによる相手への損害と、ただ「同じチームを応援する以外縁もゆかりもない者」が犯した犯罪と、同列に扱うのはいかがなものかと思います。
投稿: しょういち@東京の空の下 | 2005年7月16日 (土) 00:55
僕は「責任」っていうものの取り方って主観に近い部分があると思っていて、よくわからないのです。そこで辞める、続けないことが責任なのか、続けて状況を変えることが責任なのか…。
これは話題がそれますが、今のチームの状況、普通でいえばプロスポーツの世界なので監督の解任もあると思います。ただ、監督がまだ続けているのは、彼の責任の取り方なんじゃないかと思います。チームがそれを続けさせるのかは別にしても。だったら、僕らはこれを招いた企画者を辞めさせる、もしくは続けてもらうという判断だったり、意思表示だったりをしたほうがいいのかも、とも思いました。
投稿: kickoff | 2005年7月16日 (土) 18:47